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[再録]April 08, 2006
金魚顔? キーラ・ナイトレイ
『ドミノ』──。やはり映画館に駆け付けるべきだった。『マイ・ボディガード』を観て感じた幾つかの事柄に、確信を持った。インフォメーション・メディアとしての映画の存在形式(特質)を、いかに刷新(拡張)するか。このことに、ハリウッドの中に居ながら取り組んでいるのがトニー・スコット監督だ。
“映像派(≒堕落した映画作家)”などとカテゴライズされることを、いかに回避するか。このことを、おそらく真摯(気楽?)に考察した結果の回答が、近年の諸作だろう。正解を導いたか否かは別にして、「現代(9.11以後の米国)における映画の存在意義」を読み解こうとする企みが確実にある(ように私の目には映った)。
おそろしく情感を欠いたこの映像作法に対して、「こんなのは映画じゃない」と評する人も多いだろう。しかし、追随する凡百の“ガチャポン映像(ガチャガチャ流れ、ポンポン飛ぶ映像)作家”とは一線を画する域に到達しているのではないか。『マイ・ボディガード』と合わせて後日、改めてまとめ直してみたい。
『ドニー・ダーコ』のリチャード・ケリー(監督)がかかわっている意味はわかるのだが、ジャクリーン・ビセット(!!)がなぜ呼ばれたのかは、目下わからず(コメンタリー未聴)。『マイ・ボディガード』に続くミッキー・ロークは、『エンゼル・ハート』(1987)が重要なファクターになっている、というのが私の推察(というか妄想)。
以下は、トニー・スコットの監督作。
Tony Scott ;IMDb(06/04/08現在)
2007
Emma's War (in production)
2006
The Warriors (announced)
Deja Vu (filming)
2005
Domino (producer) ドミノ
2004
Agent Orange
Man on Fire (producer) マイ・ボディガード
2002
Beat the Devil
2001
Spy Game スパイ・ゲーム
1999
Ladies & Gentlemen: The Best of George Michael /V (video "One More Try")
1998
Enemy of the State エネミー・オブ・アメリカ
1997
The Hunger /TV Series (episode "The Swords") ザ・ハンガー/トリロジー
1996
The Fan ザ・ファン
1995
Crimson Tide クリムゾン・タイド
1993
True Romance トゥルー・ロマンス
1991
The Last Boy Scout ラスト・ボーイスカウト
1990
Days of Thunder デイズ・オブ・サンダー
Revenge リベンジ
1987
Beverly Hills Cop II ビバリーヒルズ・コップ2
1986
Top Gun トップガン
1983
The Hunger ハンガー
1974
Nouvelles de Henry James /mini, TV Series (segment "Auteur de Beltraffio, L'")
1971
One of the Missing (as Anthony Scott, writer, cinematographer, editor)
1969
Loving Memory (as Anthony Scott, writer, cinematographer, editor)
[再録]March 23, 2007
D・ワシントンと広末涼子が重なりません? T・スコット断章
(『デジャヴ』のネタばれがあります。未見の方はご注意ください。まだ粗っぽい記述ですが、07-03-24に大幅に改稿しました。さらに07-04-03に補足しました)
トニー・スコット監督の『デジャヴ』──。そうはならないだろうと思いながらも、監視システムに関するディスカッションの場面を観ながら、私はこんなオチを夢想していた。
"様々な場所や事象の再構成のためには、監視システムからの情報だけでは不足がある。これを補完するためにFBIは、倫理的に許される範囲での人間の記憶の回収を行っていた。つまり、犯罪の犠牲となり、臨死状態に陥った人々の脳(からのデータ)をシステムにつないで利用する。デンゼル・ワシントン演じるダグ・カーリンは既に命を落としているのだが、(この世に残した)記憶をスキャンされる中で情報の解析に協力し、捜査を成功に導いたことが最後に分かる"──いわゆる「死にオチ」(注1)だ。
当BLOGで以前(ここ)に触れたように、スコット監督の『マイ・ボディガード』は"ゾンビ映画"として鑑賞することができる(後年の作品『ドミノ』の中では『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が引き合いに出されていたことを忘れないでほしい)。また主人公(デンゼル)は、見かけの演出上はまさに"ターミネーター"として描かれていた。ゾンビとターミネーターは思えば、"不死身"の存在として表裏(死ねない/死なない)の関係にある。それで『デジャヴ』...。ねっ? これも『ターミネーター』だったでしょ!!
スコット監督は、『デジャヴ』の中でもやはり徹底的に"水"にこだわっている。これは前二作と同じだ。特に水葬のイメージ。『マイ・ボディガード』であればプールの描写。『ドミノ』では、トイレに流される金魚(映画完成後、モデルとなった実在のドミノはバスルームで死亡)。『ドミノ』劇中では直接、"死者による回想"(しかもプールで!)の起源のひとつ『サンセット大通り』に言及していた(脚本は『ドニー・ダーコ』!!のリチャード・ケリー)。『デジャヴ』にもそれが引き継がれているのではないだろうか。
ところで。
トニー・スコット監督の映像技法は、様式化を目的としたものではない。監督が近年たどり着いた境地として、それは極めて重要なポイントなのだ。なのに劇場パンフレットは「スタイリッシュ」という表現を連発する。御大に対し、あまりにも失礼だ! インタビュー中でも、「一番重要なのは、いつだってストーリーであり、キャラクターだ」と語っているではないか!!
『マイ・ボディガード』では、デンゼルが演じる男が抱えるパラノイアを表現したかったし、『ドミノ』はスピードがテーマだったから、それぞれああいったスタイルになった。今回はもっとまっすぐキャラクターたちが物語を綴っていく映画だから、全体のスタイルもシンプルにしたんだ。映画自体が、のびのび呼吸できるようにね。今思えば、『ドミノ』にも、もうちょっと呼吸する余裕を与えてあげればよかったかもしれないな(笑)。
映画において映像を音楽に奉仕させると、"MTVライク"という嬉しくないレッテルを貼られてしまう。トニー・スコット監督はかつてその代表格だった。では、映像を物語に奉仕させるとどうか。これには"映像派"という微妙な称号がついてまわる。では、世界観(状況設定)に奉仕させると...監視映像をカットアップした『エネミー・オブ・アメリカ』。これもまだ不足か。
そこで『マイ・ボディガード』や『ドミノ』では、主人公の内面描写を主とし、映像技法をこれに奉仕(従属)させた。例えば『質屋』(シドニー・ルメット)のフラッシュバックを拡張したものにすぎないと言えばその通りなのだが、「キャラクタライゼーション」のために映像を活用することが現代(ポストモダン)の映画を推進させる、というのはひとつの発見だといってよい。
さて。
"死者による回想"という観点に戻る。『デジャヴ』のストーリーには一見、こうした設定には珍しく"分岐"や"繰り返し(リプレイ/リフレイン)"がない。これが、この映画の最大の仕掛け──となっている可能性がある。おそらくカーリンは、ヒロインのクレア(ポーラ・ハットン)の救出とテロの阻止の両立のために、現在と現場との間を何度も行き来している(やり直している)。そう受け止めるほうが自然だ。それを暗示するために、『バタフライ・エフェクト』からエルデン・ヘンソンを召喚したのだ。
そこに至るまでは当然すべてがバッド・エンドで、リプレイの中には(転送の失敗を含めて)カーリンが絶命する「回」が相当数含まれている。少なくとも私たちが見ている「回」では、主人公はもう死んでいる(注2)。魂(21g?)はハエほどではないが、重量は軽い...だから転送に成功した(『ザ・フライ』は物質だったけれど、"超ひも"転送の時代なのね)。『オーロラの彼方へ』のスピリットを継承したものだということは、こちらはジム・カーヴィゼル!!の召喚によって明らかだと念押ししておきたい。
リニアな時間軸を持ち、片方向メディアである映画の中では、ゲームのような"分岐"(マルチストーリー)の体験は成り立たない。チャンネル間を行き来するザッピングも(演出側の恣意によるしか)出来ない。その制約を踏まえた上でスコット監督は、パラレルワールドの出来事を(感知が非常に難しいレベルで)混在させることを、この映画で試みている節がある。いま観ている映画の世界を「リニア」と信じる理由はあるのか。いまの人生を「リニア」と信じる理由はあるのか。メタな問いかけがある。
前二作よりも「ストレートなつくり」というのが一般の受け止め方だと思うが、時間と空間の折り畳み方において実は『デジャヴ』は、極めて野心的な視点が持ち込まれた映画なのではないか。
注1=一般的には、主人公がラストに死に至るストーリーを「死にオチ」と呼んでいるようだ。しかし、私はあえて「夢オチ」に相似するものとして、この言葉を使っている。要は、主人公がラストに死に至るのではなく、実は冒頭(近く)から既に死んでいたことが、"オチ"としてラストに観客に明かされる(仄めかされる)という趣向。(既にネタばれにならないマスターピースだと判断して記すならば)近年の最もポピュラーなケースが『シックス・センス』だろう。
注2=「死んでいる」といってもデンゼルが写っていたじゃないか、と突っ込まれそうだ。しかし、存在するように見える主人公が「亡者」であったという作品には枚挙にいとまがない。『シックス・センス』はそこに整合性を持たせて描き、観直すと「存在しない存在」であることを確認できるのがミソ。しかし、一般には、死んだように生きている現代人のメタファーとしての「亡者」だったりするので、他の人物との共存を許されているのだ(あるいは、みな死者なのか...)。
関連SITE
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